M−1グランプリ
「M−1グランプリ」
ついに終わっちゃいましたね・・・。
遅まきながら、さっき録画していた今年のを見終わりました。
第一回目から欠かさず見ている私にとって、
「M−1」放映の日は、次から次へと迫りくる
男どものデートの誘いを断り(←嘘つけっ!!)
リアルタイムで見るという
一年の一大イベント、というより
もはや「使命感」のようになっておりました。
なので、今年リアルタイムで見られなかったのは、一生の不覚・・・。
元々「お笑い」は好きなんですが、
「M−1」のファイナルに出てくる漫才は話術として完成度が高いですから、
同じ「人前で話す」という職業をしている私にとっては
と〜〜っても勉強になるんですね。
(全然レベルが違う上に、
全くもって、活かされていませんけどねぇ・・・ふぅ。)
そういう意味では松っちゃんの「すべらない話」も非常に勉強になります。
今日は「すべらない話」はさておき・・・
好きが高じて、「M−1」の漫才がどうしてあんなにうけるのか
誰にも頼まれていないのに、勝手に分析したこともあります。
(あ、・・・いや、決して、ヒマな訳じゃ・・・。)
ここからは、私の勝手な、
はっきり言うと(って、はっきり言わんでも)自己満足である
「『Mー1』の漫才から起こる『笑い』について」
の分析レポートなので、興味ある人だけ、続きをどうぞ!!
(言っときますが、面白さはゼロですよ・・・)
↓ ↓ ↓ ↓
さて、言語活動において「笑い」が起こる瞬間とは
どのような場合なのでしょうか?
ショーペンハウエル氏は
「ある概念とこれと関連して考えられた事物とが一致していないということがわかったときに笑いがおこる」
という「不一致説」をあげ、
井上宏氏もハウエル氏の説と同様の意味合いである
「言語活動において、笑いが起きる条件として『ズレの論理』がある」
と述べています。
そもそも、言語的コミュニケーションがスムーズに行われている場合、
「前提」(一つの発話から、さまざまなことを推測できること)
と
「推意」(会話の隙間を埋める言外の意味)
が適切に行われていることが多く、
また、グライスの「協調の原則」
1)質の公理(the maxim of quality):根拠のある真実のことを告げる。
2)量の公理(the maxim of quantity):過不足ない情報を与える。
3)関係の公理(the maxim of relation):関連した事柄を話す。
4)様態の公理(the maxim of manner):明確に、簡潔に、
順序立てて話す。
が適正に働いていると言えます。
しかし、話し方の技術として、
この上記のルールを意図的に違反することにより、
「不一致」、または「ズレ」を生じさせ、
「笑い」に応用することができると考えられます。
さて、この前提を踏まえた上で、
2006年チュートリアルのネタから、
特に爆笑をとっていた場面を分析してみましょう。
状況 :
自転車のベル(チリンチリン)を盗まれたツッコミ役のために、
ボケ役が自分も盗まれたことがある悲しい経験を語りなぐさめる場面。
ボケ:どこ探してもチリンチリンはないねん。
それからの俺の生活は荒れたよ。
ツッコミ:何で?チリンチリン盗まれただけやろ。
ボケ:毎晩毎晩、酒飲んだよ。
チリンチリン忘れるために、行きずりの女を抱いたよ。
ツッコミ:何で!女の人に失礼やろ!
ボケ:でもな、
誰一人としてチリンチリンの代わりにはなられへんかった。
ツッコミ:当たり前や!全く別物や!
ボケ:何かを求めてインドへも行ったよ。
ツッコミ:何、人生観変えようとしてんねん!
自転車のベルが一般の認識として、取るにたらないものという前提と、
ボケ役にとっては人生観を変えるほど大切なものである
という食い違いによって、
笑いが引き起こされていると考えられます。
(前提)取るにたらないもの。無くしてもかまわない。
自転車のベル ↓
(ボケ役の現実)人生観を変えるほどの大切なもの。
無くしては生きていけない。
さらに、この後、必ずツッコミ役の確認作業が入ります。
ここでボケ役の現実が、一般人の代弁者であるツッコミ役の発言によって
改めてズレを認識することで笑いが生まれています。
(前提)取るにたらないもの。無くしてもかまわない。
自転車のベル ↓
(ボケ役の現実)人生観を変えるほどの大切なもの。
無くしては生きていけない。
↓
(前提の再認識)ボケ役の現実の異常性を確認。
次に、2007年サンドイッチマンのネタを
例にあげてみましょう。
状況:
ボケ役がツッコミ役に街頭アンケートをしている場面
ボケ:今からの回答は二択でお願いします。
ツッコミ:おお、わかった。
ボケ: 今は、一人暮らしですか? それとも
ツッコミ:ふん、
ボケ:その日暮らしですか?
ツッコミ:何だ、その選択!!
(中略)
ボケ: 次は イエス or ノー で答えてください。
ツッコミ:何だか、面倒くせーなー。わかったよ。
ボケ: 自炊と外食では、自炊の方が多い。 イエス or ノー。
ツッコミ:ああ、家でご飯作るかってことね? イエスだ、イエス。
ボケ: では、イエスの人にお聞きします。
ジャガイモとにんじんと玉葱で作る料理は何ですか。
イエス or カレー
ツッコミ:そりゃ、カレーだろ!
それに、何ですか、って聞いて、イエスっておかしいだろ!!
まず、最初の二択において、
選択肢の一つが全く関係のないものを提示しており、
明らかにグライスの「関係の公理」に違反しています。
その異常なボケ役の発言により、
笑いが引き起こされていると考えられます。
中略後の例も同様で、「イエス か ノーで答えてください。」
と発言しているにも関わらず、
「イエス orカレー」と関係ない質問をしています。
また、「ジャガイモとにんじんと玉葱で作る料理は何ですか」
と問いかけておきながら、「イエス or…」とつなげているところも
「関係の公理」を違反しており、
一つの発言に二重の違反が働き、さらに笑いを引き起こしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まだまだ分析した漫才は山のようにあるし、
今年の分析も非常にしたいんですが、
いつ終わるともしれなくなってきましたので、
この辺りで止めておきます。
(今、一体何時やねん・・・。)
ここまで読んでいただいた方、
本当に御苦労さまでした!!
すみませんねぇ〜、
私の思いっきり自己満につき合わせてしまって・・・。(涙)
ま、まとめますと(って、まだあんのか〜〜い!!)
言語間のコミュニケーションの上で、
「笑い」とは聞き手と話し手の認識の「ズレ」によって起こるといえますが、
漫才の場合、現実では有り得ない、普通の人が考え付かない
「大きなズレ」によって、笑いが引き起こされていると考えられます。
また、ジョーク等との最大の違いは、ツッコミの発言が入ることによって、
その「ズレ」を確認させることができます。
そして、さらに大きな笑いが起きる要因としては、
一つの発言に二つ以上の言語外の意味が含まれている場合が多く、
仮に一つしかない場合であっても、漫才師の顔の動きや、行動などによって
それはプラスされ爆笑へと導いていると考えられます。
こんな、レポート用紙何枚にもわたる分析させるほど、
超多忙な私を(←嘘・・・)熱くさせてくれた
「M−1グランプリ」の出場者の全ての皆さま方、
本当にありがとうございました!!!
一つのことに打ちこんでいる姿は
結果や出来がどうあれ、
それだけで、勇気と感動を与えてくれました。
ところで、私のこの分析が仕事に役立っているかって?
・・・
フッ、
常にだだスベリ
です。
チャンチャン。